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いつの間にか真直ぐの道を一人きりでハンドルを握り締め、走っていた。
信号はいつも青。赤もあるけれど、それは数十メートル先からだって分かるからクラッチとギアを巧みに操作して減速しつつも決して停まることなく。 いつか僕の友だちが話していたことを思い出す。 歩みを停められた横断歩道は、歩行者用信号は赤から青へ。 その状況で次の一歩を踏み出すこと、その理由、その動作への疑問。そして、答え。 答えは結局教えてくれなかったけれど。 許可と拒否。 青は許可を。赤には拒否を。 拒否を認識した上での歩みはリスクを意味する。最悪のリスクとは、世界の終わり。 赤を受け入れるだけでなく、青を受け入れるにも責任はある。 信号機であれば、ギリギリで渡り切ろうとする歩行者がいるような。 常にリスクや責任がないケースが存在するわけじゃない。 確実なことが存在しないことなんて解っているはずなのに、そう勘違いしてしまっていた。 1+1、地球の自転、1秒間の長さ、そして、この物語の結末。 多数決で決められた、言ってしまえばそれは民主主義的な結論であればとっくに決まりきっている。 でも、たった1人の僕は拒否すれば、赤は青になるし、青は赤にだってなる。 そして、今、目の前の信号は青に見えた。
ラテ、愛読書、そして、煙草。
その組み合わせの心地よさを最近分かり始めた。 その内、二つは、必ずしも身体によいものではない。 ラテは糖分を含みすぎれば…煙草は1本でも身体に害を及ぼす。 でも、その害悪が心地よさをもたらすことが分かり始めた。 何故だろう。 身体に必要の無いことほど心地よいものだろうか。 であれば、愛読書を文学的なものでなく、コンビニの一番奥の棚に置かれている雑誌にすれば完璧? だけど、それは違うんだなあ。そういうことではない。 そういう完璧ではないんだろう。 一、足す、一が二であることを否定して成立するような、そういう抵抗に近いような気がする。 それは、コンピュータができないこと、人にしかできないこと。 理屈や損得ではなく、今そのときの瞬発力で到達できる場所。 そのときの心地よさを求めているんじゃないか、と僕は思う。 夢に見たような完全な幸せなんて、どこにも無い。 きっとどこまで行っても、一、足す、一が二であることを否定したい不完全さが訪れるんだ。 前提は思い込みの中にしかない。でも、それがたぶん間違っている。 間違いないことは、僕は僕が思うような僕ではないし、世界は僕が思うような世界ではない。 かと言って、僕は僕を操れないときがあるし、世界なんて相手にすれば、尚更だろう。 そして、その中で最良の選択をしたいのが僕。そうやって、もがいているような、遊んでいるような。 いや、別にそんなこと、興味も無いような。 もともと、完璧な人間でもなし。 それでも、それでもと、夢見てる。 それでいて、それでいて、この旅路の果て、何、手にする。 まぁまぁ、まぁまぁと、落ち着かせ、星見てる。一番安らげる香り、思い出している。
この上なく、幸せだと感じることもある。
どうしようもなく、不幸せだと感じることもある。 泣きたくなることもあって、悲しくなるときもある。 走り出したくなるような衝動に駆られることもあれば、ふて寝したくなる瞬間も訪れる。 これを情緒不安定というのであれば、情緒安定な心なんて欲しくない。 どうでもいいことは数え切れないほどあると思う。 同じくらい大切にしていかなきゃならないことも沢山あると思う。 それもこれも、全て捨ててしまいたい気分になるときがある。 それもこれも、全て捨てきれない自分がいる。 考えるべくして考えて、悩むべくして悩んでいる。 あれもこれも、楽観的に考えるときがある。 あれもこれも、悲観的に捉えるときもある。 不器用とか器用でもなくて、そういうものなのだと思うしかない。 たぶん、そういう風にできてしまっているのだろう。 利己的でありながら献身的で、全知のつもりで無知。 そのバランスを保てているのは、せめて優柔不断な性格。
ここのところ、本を読みたい気分になってきた。
一応、秋になったところで、読書の秋ということにしておこう。 ゆれる/西川美和 数年前に映画を観ていて、掲題と内容との一致が秀逸だと感じた作品。物語の本筋となる事件が、”ゆれる”吊り橋の一件から始まり、そこに関わる兄弟の”ゆれる”心情がとてもよくわかる映画だったことを覚えている。兄が、香川照之さんで、弟が、オダギリジョー、吊り橋で命を落とす田舎の女性は、真木よう子だったか。読み進める文章の登場人物は当然彼らがイメージされていた。話の流れは映画と同じだけれど、当然構成は異なる。文章で愉しめるように、一人称が登場人物の一人一人に章毎で移る。一人称だから、本当に主観で。おそらく自分の都合のいいように現実を捉えているし、行動を正当化している。”ゆれる”物語をうまく捉えていると思った。けれど、映画の方が表現の幅と情報量から勝っていたかな。小説を読んで、映画を観ていればまた少し感想も変わっていたかもしれない。 溺レる/川上弘美 彼女とは知り合って三作品目。なんとなく、読後感が同じことに気づいてきた。読んだ作品はどれもどこか不幸せな女性が少しズレた男性と知り合って、つまらない世界に対して光を感じてくる、というような具合。女性の気持ち、と片付けてしまえば、まぁ、それで終わりで、元も子もない。ちょっと短い期間に彼女の作品に触れすぎたかな。最初に読んだ『ニシノユキヒコの恋と冒険』は愉しめたから、たまに触れるくらいでいいのかもしれない。じゃあ、その日まで。 AMEBIC/金原ひとみ 彼女とは知り合って二作品目。処女小説が芥川賞で、僕には珍しく単行本で買って読んだあの頃から久しい。本作は面白かった。以前読んだ作品は、芥川賞にありがちなよくわからないような内容だった気がする。とりあえず、注目はされそうな内容で。でも、この作品は、それとは違った。錯乱した主人公の心情を描写した文章がとても気持ちよかったし、支離滅裂の中の秩序を感じられた。無秩序の秩序はきっと誰もが持っていて、生きていく上でいつの間にか決めていたルールのようなもので、それを侵される不安と侵してほしい欲望の感覚だと思う。また彼女の別の作品に触れてみたいと思った。 空港にて/村上龍 そのうち読もうと思っていた小説。少し久しぶりに読む彼の作品には、その文章のきめ細やかさと情報量に圧倒された感覚がある。ほんの数秒を表現するために敷き詰めるように綴られた数頁を目にする度に僕は刺激される。そして、その論理的な表現に。例えば、僕は今、この文章を残しているけれど、その一字一字はもう数年間愛用しているノートパソコンのキーを両手でタイピングしているからで。そのキーは数年間僕の思考を液晶の画面に現すために、指の腹に触れていることによって、表面が滑らかになっている。そのキーに情報を伝える僕の脳は、そこまで記した文章との脈絡を考え、かつ、整理していて。それでいて、液晶画面の右脇に映し出されている別の液晶に映る石川遼の最新情報を伝えるニュースの情報を整理している…というところか。物語の内容は、「あとがき」で著者が語るように希望を見出す内容になっていることも興味深かった。今、死であったり、絶望であったりが充満する世界でいて、希望を表現することに意味を感じているそうだ。僕は、違う表現をする人で数年前にそういうことを言っていた人を知っている。今、世界の流れと反発することを表現しようとしている人は面白い。 これから 今、僕の読書を待っている本は四冊ある。映画化された小説、お馴染みの著者の三連作の最後の一冊、僕の好きな映画の原作者の作品、そして、哲学者と漫画家の対談を記した作品。どれにも手をつけたいが、次は最後に紹介した本にしようと思う。おそらくもうしばらくは、活字とともにある生活は続く。
何か、綴ろうと考えていたことが記憶から消えてしまった。
とても大事なことなようだった気がするけれど、そうでない気がする。 そもそもは、今聴いているチャットモンチーのアルバムから何かが想起されて、僕はほんの数インチの画面に占められる数ミリを惑うことなく、選択したんだ。その選択はなんだったんだろうなぁ。もうおそらくは消えてしまったその感覚を懐かしんでる。 ほんの数分、いや、数秒前の出来事。 それも過ぎ去ってしまったということ。過去。
昨日、彼女と夜に会って、お茶をしていた。
今日、なんとなく焼酎を飲んでいる。 明日、友だちの誕生日を祝うだろう。 毎日、違う夜を迎える日が連なっている。 そんなに珍しいことでもないけれど、奇妙に思った。誰が為…ということを考えると、それは1日1日違うことになる。誕生日は特別な日に違いないけれど、他の日だって、大事だと思う。全く同じ予定の日はこの三日間でない。一週間で見たとしても、やっぱり無い気がする。二日あったとしても、おかしくないけれど、きっとないだろう。一週間先はどうかなぁ。いや、無いだろう。仮にあったとして、天気とか気分とかで同じ行動は起こしていない気がする。不安定で、不確かな毎日の中で、時には否定的にも思えてくる毎日の中で、確かなものを探していかなくちゃならない。一週間先も誇れる何か。 簡単じゃないんだな。 わかっていはいるけれど。とても一日々々はそんな気にならない。大事に人には素っ気ないメールを返すこともあるし、大事な仕事にも100%を求めないこともあって、これでいっかなんて服装で玄関のドアを開けることもある。まぁ、結局そういうときは、どこかのタイミングで後悔が押し寄せるわけだけど。そんな先まで見て行動するような雁字搦めの毎日を送っているわけじゃないんだな。さすがに。そんなのとっくにどうかなっているし。 後ろばっか見ている。 後悔とか自責とかそんなんばっか脳裏の片隅に居座っていて、常に主張している頃もあったなぁ。なかなかよく毎日をやれていたものだとも思う。明日のことをどう思っていんだろう?目の前には常に敵を作り上げて、自分を保っていたんだろうな。本当は敵なんかじゃなくっても、そういう存在が必要なときだったんだろうな。どうにもならなかった過去と、受け入れられない現実と、一向に輝きを放たない将来と。最終的に、立ち尽くしてる現在。それもそうか、なんて思えるのは、その頃とは少し違うところから眺めている僕がいるということなんだね。 どんな昨日であって、どんな今日にしたって、どんな明日がきたって。 僕はその先に向かっている。明日それが来たとして、それはそれできっと受け入れる準備は必要だと思う。 全てがどうでもよくなるその前に、次の一歩を自ら踏み出さなくちゃならない、なんて考える僕はというと、なんだかんだ言っても根は真面目、改めてそう思う。昨日、今日、明日じゃ変わらないだろうし。どうしようもないんだ、きっと。もう明日の手前まで来て、ここにこのまま留まることもできないし。じゃあ、明日。なんて強がる。やぁ。なんて言って、明日の僕に会うしかない。
今日、一足先に週末を迎えて、前の会社の先輩とご飯を食べる。
話の内容は、先輩のいる部署=僕のいた部署の人たちの話題がまず初めに。 先輩は普段仕事上付き合う人たちの話をその人たちを知っている第三者の僕へ話すことができ、僕は僕で、あぁ、あの人の今はそんな感じなんだ、なんて想像することができる。 そんな話のあとは、最近のこと、例えばそれはドラマの話であったり、例えばそれはファッションの話であったり、また、なかなかお互いに実現していない引越しの話であったり。 そんな時間をなんとなく過ごせる人が今僕の近くにいてくれているのがなんとなく嬉しい。 絶対に本人には言わないけれど。 他にもいるけど、おそらく本人には言わない。 しばらく会えていない友だちもいるけれど、元気かなぁ。 何も知らせがないことは元気な証拠だ思うなんて、なかなか連絡をよこさない僕に母親は言っていた。 僕はその母親の気持ちに今はなり代わってみる。 そう思える誰かがいることもきっと幸せなことなんだろう。
東京はまだ梅雨入り前。
西から忍び寄るその気配を感じつつ、晴天を迎え入れる。 今日も暑かった。 細身の半袖ポロシャツに、ネクタイを緩く締める。ボトムスは太めで。 タイは淡い黄色で、個人的にはルパンタイと名付けているものである。 半袖ポロシャツでなく、グリーンシャツであれば、その井手達はカリオストロのルパンさながらであるだろうから僕はそう名付けている。あくまで個人的に。 そんな姿で、目黒駅に降り立ち、家具屋を巡った。 彼女にはその街で過ごした時間があって、僕はそれを知りたかったから。 それから目黒駅発のバスに乗って、僕の住む街までバスで二十分強で、僕の部屋へ移った。 それはよく晴れた休日のこと。 よく晴れた日のなんでもない行動。 コンビニでジュースを買って、部屋で嵐のライブDVDでも見て、キスでもして、日曜午後の空気を惜しむ。 またね、なんて言葉でその空気を締め括る。 なんでもない一日を過ごしている。 そして、それを悪くないとも思える。 まぁ、いいけどさ。 なんだかイマイチじゃない?…自問自答してみる。 じゃあ、どうしていたら、そうじゃない?…きっと答えはない。 戦地にいたとしても、W杯の試合会場にいたとしても、静かな海岸で佇んでいたとしても、そうじゃないこともない。 日常と非日常は、それらを作っている僕の視点の中でしか存在することはできなくて、その範囲を超えれば、一方に偏ることになる。 どちらが正しいということもない。 僕が正しい道を進んでいる保証もない。 正しいと言えるかどうかは今は決められない。 全ては結果論でしかない。 今を肯定することに微塵も妥協が存在しないか?その問いを否定できる人は数少ないだろう。 今日の僕はどうだろう。 昨日の僕はどうだろう。 明日の僕は、数年後の僕は、数十年後の僕は。 今日はよく晴れた一日だった。 外を歩いた僕は少し日焼けしたかもしれない。 明日の天気は今日ほど良くはないらしい。
すべては在るべきところに在るべき形で納まった、と言えば聞こえはいい。
つまり、嘘は嘘に、真実は真実に帰った、ということになる。 でも、嘘が嘘であることを、真実が真実であることを。それを決めることのは結局僕でしかない。 そうやって、欺瞞の中で結実に向かうことなんて多分にある。 だとしても。 今の気持ちを信じていたいと思う気持ちはなんだろう。 今、もしも願いが叶うとしたら、この気持ちが真実であることかもしれない。 何度も触れては遠のいてきたものだから、今度こそは、と思う。 ただそれだけでいい。そう思えるから、あと少しだけそっとしておきたい。 破裂したら、何もかも消えてしまいそうで。 いくつの夜を越えたら、その気持ちは辿りつくんだろうかなぁ。 まだそれすら分からない僕は、明日を待つ。 今より少しだけでもいい。 安らぎある場所を。
別に嘘をつきたいわけじゃない。
嘘は苦手だし、それは1つ生まれる度に僕の中に1つモヤモヤが発生する感じがする。 そのモヤモヤはもうきっとどうしても消えることはなく、将来を霞ませる。 それでも、そうするのは、何故かな。 モヤモヤに包まれるのがキモチいいわけでもない。 現実は遠ざかっていくばかり。 いや、もともと現実なんてあったんだろうか。 何も無いところから始まって、知識や教養や処世術や雑念や信念といった数え切れないものを纏った今。 さらに沢山の嘘を纏ったところで、大きな違いもない気もする。 そもそも、嘘と言える嘘の前に存在する全てももともと僕には備わっていない嘘。 じゃあ、現実って一体。 おそらく心しかない。心が望むのであれば、それは全て現実に違いない。 心から望む嘘は現実。現実からしか嘘は生まれないし、嘘のない現実も存在しえない。 僕はこの心からの嘘を振りまいて生きている。
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